姉と電話・・・ ちょっと疲れた

最初は世間話してたんですが、ちょっとした拍子に創造論を学校で教えないとはナニゴトカ!みたいな話に。最近牧師さんになる勉強とかしてるもんだからどうもそーゆーバイアスがかかりすぎてるみたい。でもまあ私もちょっと考えるいい機会になった。ちょっとメモ。

  • 進化論という仮説は、別にあらゆる宗教・信仰を否定はしない。発見された事実からもっともありそうな仮説を立てているに過ぎない。神の意思や存在というものがそんなことで揺らぐ程度のものだとしたら信仰に値しないのでは? むしろ神の存在があるのなら、その事実の背後にひっそりとあるものだと思います。
  • 創造論は科学ではなく信仰の領域に属するもので、これを教えたら学校は教会になってしまう。学校は教育の場であって信仰心を育てる(ましてやキリスト教専門の)場ではないのだから、学校で創造論を教えるというのは論外だろう。
  • 進化論は仮説であるにもかかわらず事実としてそれを教えていると姉は主張していたが、多少混乱があるようだ。進化論、という理論は仮説。xxx年前と推定される化石がxxxから出土した、というのは事実。事実を積み重ねて、仮説を組み立てた結果が進化論という理論。そして多分、学校では「ダーウィンが進化論を発表した」という「歴史的事実」を教えているに過ぎないように思う。
  • そして学校で教えている事のほとんどは「仮説か?」と問われると「仮説です」と言わないといけないものばかりでしょう。科学の定義には反証可能性が挙げられているのだから。なので「仮説であるにもかかわらず事実としてそれを教えている」という批判は科学理論の全ての授業で「これは仮説です」と言わせるぐらいムリがある。
  • 「だいたい創造論なんて生物学会で論文発表したりしてんのか?」って言ったら「アメリカでは発表されてるはず」とか勢いでいってたけど本当か?w あとでしらべちゃる。
  • ちょっと全体的な感想としては、瑣末な事に必死すぎ。誰かが進化論信じてたら、アンタの信仰はゆらぐのか? 自分の信仰する神が「進化論なんて認めない」とでも言ったのか? 自分の信仰は自分のモノだろう。それに科学が扱う領域は事実。信仰が扱う領域は真実・真理だ。次元が違う。

んー、いろいろ考えてたら眠れなくなってきたw

  • 科学の定義に反証可能性がある以上、創造論は科学たりえない。聖書を根拠としている以上反証はできないので。やはり創造論を教えるというのは聖書を教えるということに他ならないのだから、学校の科学の授業の一環として行うには無理がある。
  • どうしても創造論を学校の授業で教えたいのであれば、道徳や倫理といった科目のなかでキリスト教論の一部で創造論をとりあげるしかない。これで不満なのだとしたら、一体「創造論も!」論者は一体何を求めているのか?
  • まあ、ぶちゃけもっともらしく出来上がっていて、聖書の記述と違う事が書いてある進化論は原理主義者としては困る!ということか。
  • 聖書の世界と現実を区別して捉える自由な心をもっているかどうか。その試金石。

あと今後勉強しておくべきなのは、創造論と進化論の範疇だな。創造論は聖書の創世記を読んでおけばほぼ終わりだろう(え、違う?)。進化論はどのへんまでを進化論といっているのか、か。

もうちょいメモ。

  • 創造論は科学の要件を満たすか?
  • 創造論が科学の要件を満たさないとしても学校教育で進化論と並んで教える必要があるか? あるとしたらその理由は?
  • 進化論は主に日本で受け入れられている(世界的には少数派である)というのは事実か?
  • 創造論を基本とした生物学の学術論文はどの程度発表されているか?
  • 進化論を基本とした生物学の学術論文はどの程度発表されているか?
  • 別に創造論を否定したいわけじゃない。神学って学問の重要なテーマのひとつだ。信仰生活においても、創世記から何かヒントをもらえる事もあるだろう。わからないのは、なぜそれが進化論に対する攻撃に繋がるのか。聖書と違うものは何もかも否定するなんてのは、かなり過激な原理主義だと、思うんですが。

11/15追記

  • 非進化論的な学術論文・研究があったとしても、それが創造論の肯定にはつながらない。科学的な手法で調査研究が行われたものなら、それは進化論に足りないものや誤りを補間するものであって進化論の敵ではないし、創造論の見方でもない。
  • 科学と宗教は扱う次元が違う。科学はある事実に対して「どのようにしてそれが起こったか」というまだ明らかになっていないプロセスやより微細な事象を解き明かしていく学問だと思う。宗教はある事実に対して「なぜそれが起こったか」という、事実の背後にある意図を汲み取っていくものだと思う。扱っている次元がはじめから違うのだ。
  • 具体的に言えば、例えばあるときに大きな台風が発生して大きな被害があったとしよう。そのとき、科学はその台風がどうやって発生したか、そのプロセスを明らかにすることができる。しかし、被害を受けた人たちが口にするだろう「なんで、私たちがこんな目にあわなければならないのか?」という疑問には答えられない。そこは宗教と信仰の範疇だ。

んー、あと姉のいっていた創造論をベースとした学術論文とやらは、どうもインテリジェント・デザイン論のことを指しているような気がしてきた。それ科学じゃないし…