メモ

「人間原理の探求」渡辺久義

科学的データをどのように解釈しても自由なはずであるのに、ある解釈はよいが、それ以外の解釈は許さないというのは、明らかに学問の自由を踏みにじるものである。

「どのように解釈しても自由」という姿勢が科学的というのは、どうなんでしょうね? ああ、科学的とは言ってないのか「学問の自由」か。ここを「科学的じゃないじゃん!」とミスリードする私がゆがんでるのかなw つまり、科学的データをどんな風に解釈しても学問の自由があるのだから問題ない、と。そりゃ、問題はないな。ただ、その解釈の仕方がおかしいよ、という批判は当然うけることになる。その批判を封殺しようとするのは、言論の自由に対する挑戦のように読み取れるのだけど、どうなんでしょう?

なんか昨日あたり読んだ東村山新聞を思い出しましたよ。

なんとなく分かってきた。自然科学のマットウな学会等で発表される論文は、あらゆる批判にさらされ、その上で反論がなされて生き残ったものだ。ID論者(に限らないけど、なんというか無理のある主張全般)に共通するのは、批判に対して「言論封殺だ!許せん!」という反応を示す事が多いように思う。本当に自身の理論を信じているなら、研究者として粘り強く論戦を行うべきなんだけど、逆切れ→撤退。引きこもってないでちゃんと反論して戦う人っていないんでしょうかね?