なぜID論や経典の字義解釈に「気持ちの悪さ」を感じるのか
考えを整理してみる。ざくっとメモ。
- ID論に感じるもの
- 本来宗教*1が扱うべき領域ではない所で青筋立てて論争をしかけているように見える。
- さもその論争が目的であるかのように見せておいて、実は信者獲得の為のデモに過ぎないのではないか?
- 目的を隠して、他者に自分の考えを押し付けようとする集団には、「何をされるかわからない」という恐怖を感じる。
- 字義解釈に感じるもの
- 経典を字義的に100%その通りなんだ、とする考えは、自己の思考の放棄だと思う。
- 思考を放棄するという事は経典・教義に全てをゆだねるという事で、思考にかかるコストを節約してもっと有効な事に使おうよ!というアプローチで、そーゆー生き方もあるとは思う。それは大手マスコミの伝える事は「だいたい合ってる」と一定の信頼を置いていちいち検証するというコストを節約して日常生活を送る、という事と似ている。
- 但し、思考放棄によって宗教への依存が高まると、集団に都合のいいようにコントロールされる人物に成り下がってしまうのではないか?という恐怖を感じる。
- その点で「信じる者は救われる。」というキャッチフレーズは、非常に恐ろしい。
- 思考能力を維持する事は、自己の生存を担保することだ、と思う。思考を放棄してしまう事は、手足を失い自分だけでは目の前にあるパンを食べる事もできなくなって、でも他者の善意によってパンを口に運んでもらえる状態に陥ってしまう事と同じだ。私は、そうはなりたくない。
- 現代において宗教の意義は、生きる意味を求める事にあると思う。科学とは扱う領域が異なるのだから最初から「論争」など起こる理由がない。そこに字義解釈に後押しされたID論が盛り上がってくるのは、その本質を見失ってしまったからなのか? それとも、あえて宗教と科学の境界をぼかそうとしているのか? ぼかそうとしているとしたら、それは何の為に?
- 声高に何かを主張する人全般にそうだけど、謙虚さが足りないと思う。残念だけど人間は愚かでその能力に限界はあるし、ありとあらゆるところで間違うんだ。聖書だって紙にしたのは人間で、翻訳がミスったかもしれないし、原典の段階で通じた前提が、現代ではもう通じない話なのかもしれない。神がどれだけ正しくたって、その声を聞く人間は大いに間違ってしまうワケなんだから、真理だ正義だ愛だ真だと、金科玉条を振り回すのは、「危険な賭け」でしかないのではないか?
- どこまでが妥当(というか否定してもしょうがない部分)で、どこからがヘンだと感じるか
- この世界や自己が存在する理由や目的がある→○
- 理由や目的なんてないんだ! という論もあるし、それは否定しないけど、理由や目的があったほうがハッピーじゃん?
- この世界や自己に存在する理由や目的を与えたのは神である→○
- 存在の理由・目的を神に求めてもいいと思う。そーゆー立場もあるし、それは尊重しますよ。
- この世界を創造したのは神である→△
- いろいろ議論はあると思うけど、この世界が何者かによって作られたという可能性については、否定されたわけじゃない。
- 世界創造のプロセスは文字通り聖書に書かれている通りで6日間で、6000年前に行われた→×
- 物理的プロセスについては、ナンセンスな主張だと思う。
- この世界や自己が存在する理由や目的がある→○
- ↑のボーダーラインで考えると、「何の為に」という学問と「どのようにして」という学問の境界が問題なんだ。ID論は「何の為に」を論じるべきで、「どのようにして」を説明するものにはならない。それを「どのようにして」を説明する進化論教育の代わりにしようとするからおかしいんだ。