「オタク」を見る視線

「オタク」を見る視線、明日はどっちだ。 - たまごまごごはん
ちょっと後で何か書いてみよう。おたく(私は自分の事を感覚的にひらがなの「おたく」だと思っているのでここでは自分の事を書くときはひらがなにしてみる。)である事には自覚的ではあるんだけど、「濃い」所では突っ込めないという感覚もある。微妙な中間層みたいな立場から感じた事など。

しかしあらためて書いている文を読むと、変なものです。「オタクの人」「オタクじゃない人」って、おかしな表現ですよね。

「オタクじゃない人」ってくくる必要がそもそもないんだけど、気づいたらオタクな自分こそが、そうやって見てしまっているんだなあと実感してしまいます。

これなんだけど、もっと整理すると3つの観点があると思う。

  1. 「彼はオタクである」という観察者の視点
  2. 「私はオタクである」という自分自身の自覚
  3. 「私はオタクであると見られている」という観察されているという自覚

きっと上で書かれている「オタクじゃない人」というのは観察者の視点なんだ。その人本人がオタクかどうかとは無関係な。そして3点目の見られている感というのは本人がオタクであるかどうかとは、これまた無関係。「そのように見られてしまった」という感覚なので。

これが自分の中の、オタク的な自意識過剰なんだろうなあ。隠れオタやっていると、花粉症の時の粘膜のごとく過敏になりすぎてしまいます。思春期男子が辞書でドキドキするようなレベルだと思います。

「見られてしまった」感そのものだ。それはきっと「オタクというものは、こうだ」というその時の社会の空気としての暗黙のあざけりを自分の中で認めてしまっているということで、なんだかちょっと悲しいなあと。

CSS Nite云々の時もオタクに対するあざけりを公然と書く人がいたりして、気持ちがどんよりしたもんだけど、なんかさー、そんなのどうでもいいじゃんよ、と40が近くなってきて吹っ切れてきた今日この頃ですよw

結局の所、社会性の大小という個々人の性質があって、たまたまサブカルっていうジャンルがホットになったところでマスコミがこれをセンセーショナルなお祭りにしたもんだから、たまたま大きな集団のなかに混じっていた「濃い人」が面白いよって殊更大げさに伝えたりして、それが今の「暗黙のあざけり」の源になっている。だいたいが社会性のなさをなじるケースが多いと思うけど、たまたまそんな人が目立っただけじゃんよ。そんなの「今時の女子高生はみんな援助交際をやっている。」ぐらいの見識と大差ない。ネタとして面白がるのはアリだけど、自分がそんなのに振り回されても面白い事ひとつもないよ。

自分には色々好きなものがあって、それに浸かるのが好き、というのは変わらず、あわせて「ほかの人の好きなものを知りたい」「こんな楽しみ方を共有していきたい」という思いが次に重なるのが自分の場合です。

これは「オタク」って言うのかなー? みんなフツウに「これ面白いよね!」とか、「なんか面白い話ない?」と面白さを共有したい、共感したいって欲求があると思う。強いて「オタク」と「オタクでない」を切り分けるとしたらこの部分の欲求の強さでしかないけど、それだって相対でしか計る事ができない。「私はオタクだと見られている」と感じるのは、たまたま大人として属している(会社やら自治会やらいろいろの)集団に、相対的に同じぐらいの位置にいる人がどれぐらいいるかという運不運の問題でしかないんじゃないのかな?

ということで、これからもラジオ楽しみにしてるんで、いろいろ(ぱんつとかw)天真爛漫に面白がってください。私もいろいろ面白がるのでw

あれだ、ネットへ書き込んだり見たりする事の楽しさを一番感じているのは、日常生活の中で「私はオタクだと見られている」感=マイノリティとしての疎外感を感じている人たちだと思う。彼らが(まあ、私も含めて)フツウに共感する人を見つけ出して一緒に楽しむ事ができるのは、ネットだからなんだよなー。ニコニコ動画が大流行しているのも、こーゆー背景があるからなのかもね。

蛇足。ニコニコ動画のアカウントが参照している動画のタグを分析とかしたら、ある一定の傾向をもった集団にいくつか分かれるんだろうな。これを研究したら面白そうだけど、まー個人情報保護だのなんだのの問題があるので、難しそう。