クリスマス礼拝@札幌GH教会を斜に構えて眺めてみる

札幌に出張していて、21日で無事ミッション終了。その後飛行機の予約変更して姉宅で寝泊りしてたんだけど「12/23にクリスマス礼拝あるんだけど、行ってみない?」と姉から誘われる。で、行ってみた。で、そこで見た事感じた事をちょっと書いてみる。宗教的にはニュートラルである事が宗教的な拘りという立場から、プロテスタントの教会で行われるクリスマス礼拝とは、どーゆーものか書くのも、まあ、ネット上での一つの肥やしになるといいなーと。

以下、長いので、ちょっと折っておく。


行ってきたのは、歓楽街が間近にあるGH教会。そこのN牧師とは、20年も前に「金曜日会」というクリスチャンが集まってその時その時のお題について考える会で話して以来の知り合い、という事になる(その後関東で就職してからは会う機会はほぼなかったけど)。姉は当時からクリスチャンとしての信仰を持っていたわけだけど、私は単純な好奇心と、冷やかし半分の気持ちで行っていた。まあ、今回参加のクリスマス礼拝も同じ動機なワケなので、まあ、進歩がないなとw

最初にズバっと書いちゃうと、2000年の歴史(背景も含めると6000年ということになるのかな)のある宗教で、さすがに人をその気にさせる技術に長けているな、という事を感じた。技法として優れている、というか。もちろん、目指す世界は明るい善性に満ちたものなので、受け入れる事は悪い事じゃあない。超絶技巧でその気になって、輪の中に入る事は、とても気持ちがいい事だろうとも、思う。でも、なんか、私はそれはしたくないな、と、うまくいえないけど、思ってしまう。

参加した礼拝は一般の人にも開放されていて、親族友人知人を呼んだ人もいたようだ(私もその中の一人)。なので、通常の日曜礼拝なんかと比べると「濃すぎない」ように構成されていると姉から聞いていた。実際、長すぎたり難しすぎたりする説教は控えめ。全体としては、洗礼を受ける人(この日は2組いました。確か。)の「証」(多分、信仰告白と言われるものだと思う)と、賛美歌が時間の半分以上を占めていたんじゃないかな。賛美歌は、クリスチャンでないと知らないだろうなー的なもの(でも歌詞がパワポ+プロジェクタで映し出されるし、同じフレーズの繰り返しなので、だいたい歌える)や、「もろびとこぞりて」なんて一般ピープルでもOK!なのも入っている。これをみんなで何度も歌うんだけど、これが気持ちがいいんだよ。なんとも言えない高揚感がある。
で、「証」の表明だけども、その人個人の経験の中で信仰を確信するに至った簡単なエピソードを紹介する感じ。スピーチ、ほど堅苦しくないけど、簡単な挨拶よりは突っ込んだ感じ。自分で自分の事を話していく。これは自分がその場に立ったわけじゃないから、下種の勘ぐりみたいなモンでしかないけど、あれもきっとすごく気持ちがいいものなんだと思う。最後はみんな拍手でハレルヤハレルヤ。完全な全肯定。「神サマの導きで今ここで証を示す事がすんばらしい!!!」という感じ。
ゲストに対するサービスも徹底している。教会メンバー以外で参加してくれた人は、全て名前を把握していて「○○から来てくださった、××さん。わざわざ遠くからいらして下さいました。ハレルヤ!」という感じで歓迎。大体が教会のメンバーが連れてきた人なので、もう少しプライベートなお話しなんかも織り交ぜながらホメつつ精神的おもてなし。こんな風にされたら、大抵の人は嬉しくなったりすると思う。悪い気はしない。
こんな感じで人の心が高揚してくるのは、偶然なんかじゃない。歴史の中で練られ、高められてきた確かな技法の裏打ちがある。私が少々の不安、一抹の気持ちの悪さを感じるのはきっとこの部分で「オマエはこうされるのが気持ちいいだろう? こっちに来ればもっと気持ちがいいぞ。」という意図をどこかに感じるからなんだと思う。

こーゆー、持ち上げ型の快感とは別に、もう一つ面白いなと思ったのは、同じ興味を持つもの同士でいろいろな話ができる快感というのもある事。おたく的に表現するなら、ものすごく細分化された特定のジャンルに興味のある人がいたりしたら「同志!」みたいな感じになって盛り上がっちゃうアレですよw おたくってのは、まあ私個人の場合だけども、日頃結構さびしいんですよ。なかなか突っ込んだ話しができる相手がいない。なので、その思いを日記にブチまけて自慰に耽って日々をすごしたりするわけだ。今回話題にしている宗教的集会ってのは、同じ価値観で集まった仲間が同じ場所にいっぱいいて、いろんな話ができる。それが毎週日曜日、日曜日以外にも早朝や深夜なんかにも集会があるわけです。いろんな事話したいと思ったら、いつでも教会に行けばいい。そーゆー、なんというか「善性(もしくは神サマ)おたくコミュニティ」として、うまく機能していると思う。もちろんそれは偶然なんかじゃない。

もう一つ、教会の集会の特徴というのは、老若男女が一同に会する、最近都市部ではあまり見なくなった集会だ、というのもある。赤ちゃん(23日は幼児洗礼を受ける赤ちゃんもいました)からおじいさんまで、小学生もいれば、中学生、高校生もいる。社会人1年生みたいなのから人生のベテランみたいな人も。そしてそれぞれ人生の背景とする部分が違っていて、話すと面白いんだ。フツウに生活していたら絶対接点の無い人たちとの出会いの場がある。昔金曜日会に出ていた時の動機もやっぱりこの辺が大きかったのかなと、振り返って思う。まあ、新たに参加する人にとっては、ひとつの出会い系ですよ。23日の礼拝でのN牧師の言葉を借りれば、教会に属する人たちは「家族」という事になる。一言で済まされているけど、集団の構成や心の距離間なんかを考えると、「家族」という言葉は、当たっている感じ。逆に言えば、そーゆー大家族の一員になって、家族として心の距離をガッと詰めて付き合っていく事に自覚的でないと、後で困った事になると思う。私なんぞは、そーゆー距離間というか、ウェットな感じに、いつまでも晒されていると多分どうにかなってしまうんじゃないかなw 一人暮らしが長すぎたw

なんだかんだと書いてきたけど、信仰のある生活も、教会での集会も、悪いものではない。むしろ気持ちのいいものだと思う。善性を信じたいけど、一人でそれを貫けるほどには心の強度に自信が無い人には、いい選択肢だと思う。私はそれほど強くはないけど、ポッキリ折れる程には弱くないとも思っている。そして多分、信仰のある生活は、私にとって窮屈なんだ。特定の価値観にハマりすぎると、自由な立場からのいろいろな意見も、だんだん言えなくなるんじゃないか、とか、思っちゃう。多分こんな日記をネットに書き込んだりは、出来なくなるんだw 思ったことを好き勝手に書く。ソレが出来る立場は捨てられない。きっと信仰を持っている人は「そんな事ないってw」って言うんだろうけどね。

長い一人暮らしを続けていて至った今のこの感覚を表現するのに、かなり近い言葉がある。

孤独に歩め
悪をなさず
求めるところは少なく
林の中の象のように

おたくチックに、「イノセンス」からの引用(元は仏陀の言葉だけど)。今の私には大家族はいらない。社会に少しの恩返しをしながら、今の暮らしが続けられれば満足だ。善を行うよりも、悪をなさない。それぐらいがちょうどいい。憐れな人間が行う善は、想像力の欠如によって、時に独善になるもんだしね。

最後に斜に構えない目線で、同じ礼拝について書かれたエントリを紹介。
http://fragrance888.blog84.fc2.com/blog-entry-286.html
クリスチャンの義兄の日記です。真正面から見ると、同じ礼拝もこう見える。まあ、いろんな角度から物事を見るのはいい事だ・・・ と、思います。